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京都トゥービーワイズメンズクラブ

'07.04.01 YMCAの壺 vol.4「YMCAとキリスト教」

さてワイズの方からよく「YMCAがキリスト教のことをあまり前に出さなければいいのだけれど」「キリスト教キリスト教といわれるとちょっと...」とか「キリスト教のことはよくわからないから」とか「YMCAはクリスチャンが少ない方がいい」というような声を耳にすることがあります。
キリスト教信仰というと「原罪」「十字架による贖罪」「復活」の問題や「三位一体」の神などクリスチャン以外の人にとって判りにくく、おいそれと信じがたいことばかりで、またカトリックにプロテスタント。また様々な派があって、良く判らないという人がほとんどだと思います。クリスチャンにとって大切なことであってもそうでない人にとっては、近寄りがたいものでしかないでしょう。
そのような普段キリスト教の礼拝に馴染みのない人にとっては、YMCAの行事や式典などで行われるお祈りや賛美歌などは居心地の悪さを感じさせるものであるかもしれません。また、キリスト教に対する堅いとか排他的といったイメージがそう言わせているのかもしれません。特に普段宗教にあまり関心のない人にとっては、宗教性を強調されることは警戒感のようなものが働くのかもしれません。ただ、YMCAがそのように捉えられているのは、そのように捉える人の側の問題ではなくYMCAの側や日本のキリスト教界側の責任もあると思います。YMCAの持つキリスト教のことをきちんと説明せずになんとなく皆が判っているもののようにしてきた部分もあるでしょうし、キリスト教への疑問や質問にきちんと答えて来なかったからなのかもしれません。
しかし、どのように曖昧にしようとYMCAがキリスト教の団体であることは紛れもないことですし、同志社大学からキリスト教を取ったら同志社大学でなくなるように、YMCAからキリスト教を取ったらYMCAでなくなってしまうことになります。(ただの青年会、YMAになります)
そこで今回のYMCAのツボでは、古いワイズメンの方や長年YMCAに関わっておられる方にとっては、ご存知のことばかりかもしれませんが、また様々な批判や誤りの指摘を各方面から受けることもあることを覚悟しつつ、YMCAにおけるキリスト教についてできるだけ判りやすく私なりの解説をしてみたいと思います。
まずご存知の方も多いと思いますがYMCAの起りは、祈りの会から始まったということです。YMCAの創立者ジョージ・ウイリアムズの宗教的情熱から彼が働いていたヒッチコック・アンド・ロジャーズ商会で始めた祈りの会に、初めは彼を変な奴という目で見ていた職場仲間が一人また一人と加わってできたのでした。(当時でもこの会は変な目で見られていたようです。)
何事も立ち上げにはエネルギーを必要としますが、YMCAの場合は、創立者たちの宗教的な情熱がエネルギーになったのだと思います。したがって最初から社会奉仕団体や、青少年団体としてスタートしていたら続いていなかったかもしれませんし、今のYMCAはなかったでしょう。
そのようにYMCAは祈りの会から生れましたが、教会のようにキリスト教の伝道を主目的とする団体ではなく、地域に特に青少年に様々なプログラムを提供する青少年団体として広がり発展していきました。キリスト教界からYMCAを見ますとキリスト教の流れからいえば、プロテスタントのキリスト教の運動であるということですが、プロテスタントのいずれの派にも属していません。かえって幾つかに分かれている派を一致させようとする教会一致(エキュメニカル運動といいます)の立場を取っています。さらにYMCAはプロテスタントに限らずカトリックをも含めて一致していこうという立場です。さらにYMCAが教会と違うところは、YMCAは当初から平信徒(レイマンといいます)の運動としてスタートしました。したがって牧師や司祭と言った聖職者であってもYMCAの中では会員として同じ立場であるということです。
YMCAがシンボルの中心に聖書の個所「ヨハネによる福音書17章21節 ― みんなのものが一つになるために」を据えたのは、ある意味キリスト教界にある様々な信仰解釈や教義による分裂を避け、逆に一つになる方向性を目指したとともに、クリスチャン以外の多くの人を巻き込んで運動をすすめるための知恵であったと思われます。それは、聖職者を中心に進められた運動ではなく、平信徒の運動であったということが関係しているのだと思います。
次にプログラムについて見てみますと、YMCAのマークの赤い逆三角形のそれぞれの辺が表わすのが「Spirit」「Mind」「Body」であることはご存知だと思いますが、YMCAの最初のプログラムは、まず「Spirit」のプログラムでした。祈祷会、聖書研究会、お茶の会、カウンセリング、いずれも個人の魂の救済を目的としたものでした。やがて、知性(Mind)の向上を図ろうと図書室や著名な講師を呼んでの講演会などをやるようになりました。YMCAに体育活動(Body)が入ってきたのはずっと後で、YMCAが北米に広がり、ニューヨークのYMCAが1866年に体育事業を目的に入れてからです。
このように、現在のYMCAの活動においては、Mind とBodyの説明はできてもSpiritの成長ということは説明されにくくなっていますが、YMCAにおいてはSpiritの成長を促すプログラムがその発祥であったのです。
振り返って昨今のいじめの問題や命が軽視される風潮、他人に対する無関心や人と人の関係において相互の不干渉が進む現代社会において、ある意味これからの社会を担う青少年の心の問題(Sprit)は、もっと真剣に考えられなければならないことかもしれません。
他者への思いやりや人間の力を超えたものに対する畏敬の念、人間の持つすばらしさと同時に愚かさ、命の大切さや、平和の問題などに対して、様々な団体や組織、個人が様々な切り口から取り組もうとしている中で、YMCAはキリスト教という拠って立つより所を持っているといえるでしょう。
その意味でキリスト教はYMCAにとって弱点ではなく、かえって強みであるはずです。
欧米やクリスチャンの多い国と違い、キリスト者の人口が少なくキリスト教的基盤がない日本において、YMCAのおかれている社会的立場や果たしてきた役割は異なります。
決して社会的に強い基盤を持っていたわけでもなく、ともすれば時代の嵐の中で吹き飛んでしまいそうな中で100年以上の歴史を保ってきたのは、YMCAが日本社会の中で果たしてきた役割、社会的弱者のための活動や、欧米の文化や思想の窓口になったといった側面だけでなく、時には時代の流れに押し流されることがあっても精神的柱を失うことなく(戦時中であっても聖書研究会が行われたように)時代の流れの中でキリスト教信仰に立って、時代と向き合あってきた先達の信仰(祈り)と、その姿を見て支えてきた多くの人(市民)たちの思いではなかったでしょうか。
そのことを考えると現在のYMCAは、もっと社会の中でキリスト教的立場を強調しそのプログラムや事業の根拠を明確にしなければならないのかもしれません。しかしそのことは当然クリスチャン以外の人を排除することではなく、その事業やプログラムの持つ願いや目的に賛同する人を増やすことに結びつくものでなければなりません。隣人愛や奉仕の精神といったことは、決してキリスト教だけでなくその他の諸宗教においても共通のものがあるはずだからです。したがって、YMCAの運動の中に(ワイズメンの運動も当然含まれます)仏教徒やイスラム教徒や神道の人が居てもおかしいことでなく、広く多様性を認め、お互いを尊重し合い、違いを超えて社会の発展のために青少年の健全育成のために一つになることができれば、それがキリスト教的に言えば「神の国」が近づくことに他ならないのではないでしょうか。
以上、長々と書きましたが当然異論反論はあろうかと思います。連絡主事として、トゥービークラブの皆さんにお世話になった連絡主事として最後のお勤めとして書かせていただきました。

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